インド

June 28, 2010

インドを離れる寂しさ

CIMG10826月、28日。
とうとう、明日インドを離れる。
今まで何度もインドに来ていて何度も離れてきたけれど、また明日ここを離れることがやっぱり寂しい。

インドを離れるときって、離れて違う国に入った瞬間にその寂しさに襲われてきた。

誰も話しかけてこない、
牛、猿、犬、いろんな鳥たちがいない、
リキシャマンたちがいない、
物乞いがいない。

明日離れるってこともあって、今日は持っていた小銭を全部物乞いに配った。10枚近くあった小銭は、あっという間に無くなってしまった。別に私に物乞いの人たちが寄ってきたわけじゃない。歩いている道沿いにいる物乞いに順番に配っていただけだ。

インドのお金は、めまぐるしく?変化している。3年前に来たときいんは2000ルピー札なんて無かったし、ムンバイなどでしか手に入らなかった記念コインが、いまやインド中で手に入るようになっていた。そして、コインは銀色と決まっていたのに、5ルピーコインに限っては金色のものも作られている。

インドの5ルピーコインは重い。分厚いのだ。薄い布のお財布に3枚も入れたら、お財布の形が変わる。しかし記念コインや金色5ルピーコインは薄く、軽い。
私はこの重い5ルピーコインを、物乞いの人の手のひらの上に置くのが妙に好きだ。5ルピーにはお札もあるが、そんなお札をぺラッと渡すのは好きじゃない。

上記のような状況ということもあって、私のお財布の中のコインの中に重い5ルピーコインは一枚しかなかった。10枚のコインを上から順に物乞いに渡していく。

ふと、道路沿いにホーローの古いコップを置いている物乞いのおじさんがいた。彼には2ルピーコインを渡した。彼は身体障害者で両足が無く、差し出された両手は、指があっちこっちに向いていた。

2ルピーコインを置く。彼は軽くお辞儀をしてくれた。

私が去った後、彼はその2ルピーコインをホーローのコップの中に入れた。カラーン、という音が、私を何故かとても寂しい気持ちにさせて、路上を歩いているのに涙が出てきてしまった。

物乞いの人に対する哀れみの涙じゃない。ただ、私はインドを離れるのが寂しかったのだと思う。

saraswatiganesh at 23:27|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

1600年錆びていない鉄柱

CIMG10926月、26日。
デリーに、1600年もの年月の間、錆びていない鉄柱があるのを知っていますか?私は旅に出る前、ある本で読んで知ったのですが、インドという華やかな見所満載の国で、こんなに地味な、しかもただの鉄を見に行くことになるとは思ってもみなかった。

この鉄柱はデリーのシンボルともいえる、クトゥブ・ミーナールという塔のあるエリア内にある。

鉄って錆びるものじゃないのか?ちょっと調べてみると、世の中には純鉄というものがあって、それは塩酸や硫酸にすら犯されず、また強い磁石でこすっても永久磁石にならないそう。鉄っていうやつは、いろんなものが混ざっているから錆びるそうです。

現在では東北大学の助教授、安彦さんが開発した真空溶解炉法によって99,9995%の純鉄が精錬出来るようになったそうで、この高純度の鉄では今まで作れなかった合金も作れるようになるなど、金属加工の新しい扉を開くもの、と紹介されているらしい。

日本で作品を扱っているとき、それが何で出来ているのか、何で描かれているのかってことを、いろんな方法で見分けるってことをしてた。絵の具や色鉛筆で描かれていたらまだしも、世の中には体液を使う人もいれば何かの骨でものを作る人もいる。

鉄って錆びるもんだと思っていたのに、純な鉄は錆びないってことを知ったとき、それを見に行きたくなった。そして、見てきた。

見る限りでは多少錆びているようだったけど、刻まれているサンスクリットの文字が妙に美しかった。いまや柵に囲われているけれど、この鉄柱に背中を向けて、両腕で担ぎ上げると願いがかなうと言われていたらしい。
文字の解読からは、この鉄柱が、西暦375〜413年に建てられたことを記されているらしく、どのようにして作られたかは書かれていないそうだ。当時の技術でどうやってこの鉄柱を作ったかは、世界七不思議らしい。

こういう知識があったからかもしれないけれど、この地味な観光が、デリーで心に残る観光のひとつでありました。


saraswatiganesh at 23:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

スパイスには依存性があるか

CIMG1062毎日ドルマママの食堂でチベットフードを食べていたら、ある日にふと、スパイスの効いたカレーを食べたくなってきた。お、?

チベタンコロニーから地下鉄で移動するとたちまち世界はインド人だらけ。カレーなんてどこででも食べられると思いきや、美味しい場所を探すのは一苦労なのだ。それこそお金を払えば美味しい食にありつけるのかもしれないが、路上を歩いているだけで漂ってくるスパイスの香りには何故か勝てない…。

ものすごい大きな鍋で煮詰めているインド人を発見!まずは写真を一枚撮らせてください、え、いやだって?そんなそっぽ向かなくても…。インド人としては珍しい人だな。

まだ出来上がっていないとのことでここでは食べられなかったが、この日からスパイスへの愛が復活。日本食やチベット食に走っていた私ですが、インドの首都デリーにいるのだから、それこそインド中のインド食が食べられます。南インドのドーサに舌鼓を打ち、今日もチベタンコロニーへ…。

saraswatiganesh at 22:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

食堂のママ、Dolma(ドルマ)

CIMG1059ほぼ毎日、このドルマママのいる食堂でご飯を食べてた。
チベタンフードは、野菜や肉のダシを使っていることが多いから、インドのマサラフードに疲れてきたときに、とっても美味しく感じる。チベタンエリアに泊まっていることもあって、ここで一番美味しい食堂を探した結果、彼女の経営するこの食堂が一番美味しいことが判明。

毎日トゥクパ(野菜のダシスープに麺と野菜)、モモ(蒸し餃子)などを食べていた。

しかし昨日、初めてちょっと変わったものをオーダー。その名も「レモンチキン」。私の頭で想像できるのは、料理されたチキンにスライスされたレモンがついてくるのかなーと思ったがなんと、出てきたのは細切れにされたチキンが、レモンやパイナップルのソースの中に入っているという代物だった。

予想外に、レベルが高いぞ!

インドに来たことがある人は分かると思うけど、インドの安いレストランや食堂では、料理のライセンスなんてもちろん持ってない、しかも男ばかりが料理をしていて、それこそ何にでもスパイスを入れりゃあいい、なんていうところがごまんとあるのだ。

しかしチベット人は違うのだろうか。こんな食堂ですら、こんなレベルの高いものを出せるなんて。

saraswatiganesh at 22:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

Tibetan Refugee Colony

CIMG1065ウズベキスタンのビザのこともあって、インドの首都DELHI(デリー)に二週間も滞在することになった時、その滞在先はデリーにあるチベタンエリアに決めた。ガイドブックには、「大都会に飽きた人にぴったりのこの美しい小区域は…」との書き出しで紹介されていた。しかし、来てみると別に美しくもない。ま、都会だからこんなもんか、パハルガンジに比べたら幾分も美しいといえるかもしれない、と思い、この2週間滞在した。

不思議なのは、この区域の入り口にも書かれてある、「Tibetan Refugee Colony」の文字。訳すると、「チベット人難民キャンプ」とでも言うのだろうか。

門を入ると、とても難民キャンプの雰囲気じゃない。ほとんどの人がチベット人なのだが、みんな強気で商売をしていて、貧しそうな人はいない。いるとしたら、それはインド人の物乞いだけだ。

ダライ・ラマ氏の自伝を読んでいても、チベットから越境してきた当時の人々は、インドの暑さと過酷な労働の中、何万人も倒れたらしい。過酷な労働はいまや無くなり、チベット伝統の織物や彫刻を作る作業場がインドによって設けられ、そこで働くことができているチベット人たちはたくさんいる。

いまや彼らは、インドの中で「難民」であるには変わらないとしても、その生活は「難民」という言葉から連想される生活ではないように思う。彼らの生活を垣間見ていると、インドの寛容さを感じてしまうが、これは正しい解釈なのだろうか…。

saraswatiganesh at 22:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

June 20, 2010

同じ場所にいるのに同じ場所にいない

6月、19日。
あと10日もここデリーにいなければならない。早くから観光するのもどうかとは思ったが、この機会に今までほとんど観光していないデリーを知り尽くしてやろうと考えた。
そして今日は、デリーでの観光としてはまずみんな一日目に行くであろうジャマー・マスジッドに行ってみる。その付近はバザールだらけということもあり、それも面白そうだった。

行ってみると、マスジッド周りにはイスラム教グッズが所狭しと並べられていた。売っているインド人もイスラム教徒。ふっかけられる値段にすぐ背中を向けると、その半額以上の値段が私の背中の向こうで叫ばれている。

そんなとき、ジャマー・マスジッドからチャンドニー・チョウクまで歩いていると、なんと裸の女性が向こうから歩いてきた。

私は一瞬目を疑って、え、え、と思っている間、彼女から目を離せなかった。彼女の髪はボサボサで、身体は黒人のように黒かった。しかし身体の線はおばさんとまではいかず、もしかしたら30代だったかもしれない。

しかし、こんな昼間の、しかも観光客すら歩いているような通りで、…。私は彼女を避けた。

以前、バングラデッシュに行ったとき、たった1週間ほどの旅行だったのに、バスで移動中、裸の女性を見たことがある。田舎の土の道で、道の端っこを足元を見ながら歩いていた少女。彼女は10代に見えた。白めの肌、若い肌。明らかにレイプされたのだろうと予想した。

バングラデッシュに限らずインドでも、田舎の女性たちに貞操を守ることなんてことはできない。藩主がいたころは毎日のように女性たちが彼らに犯されていたし、藩主制度がなくなってからも警官たちがそれに替わっているだけだ。また、子どもをさらっていくギャングなども、さらうと同時にそういう行為をしていると聞く。

しかしインドにはカーストというものがある。肌が黒かったり、汚いものを洗う仕事などは低俗カーストとされ、性交を売る仕事も同じカースト同士で行われる。しかし逆に、上のカーストの人が何をしてもいいというような、低俗カーストの女性たちの仕事もある。田舎で犯された妻たちに子どもができてしまうと、彼女たちは都会のこういう仕事に就かざるをえないということもある。

考えるだけで吐き気がする。

バングラデッシュの都市部の公園には、親のいない子どもたちが住みついているけれど、彼ら、彼女らは暗くなってから公園に来る大人たちの餌食になっている。ただ性交をするのではなく、膣の中に石を入れられたりする。もちろん膣からは血が出るし、病院にも行けない。

ああ、考えるだけで吐き気がする。

今日見た女性は、いったいどういう経緯であんなことになっているのか分からなかった。あの後、どうなったのだろう。インドで、笑顔のない物乞いや、物乞いすらしなくなったひとりぼっちの人々を見るたびに、「近寄らないで」と思う気持ちと、「彼らも同じ人間だ」という気持ちが両方私の中にあることを自覚する。

参考;石井光太氏の著作物

saraswatiganesh at 17:36|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

June 18, 2010

ウズベキスタンへの準備

CIMG10556月15日の朝7時ごろにDELHI(デリー)に到着し、なんとか宿を決めた後、私はウズベキスタン行きの準備をした。

ダラムサラで妹と別れることになった後、このまま陸路でパキスタンに入る気持ちが薄れていった。インドからパキスタンへ入り、陸路で中国内のウイグル自治区まで行く行程は、3年前に私が一度通った道だ。今回も通る予定をしていたが、妹と一緒に行くことがなくなった瞬間に、その行程を飛び越したい気持ちになった。

私はきっと、インドの喧騒とはまた違うイスラムの世界や、あの美しいパキスタンの山々、そしてどこまで行っても人が住んでいる山の村々、チベットが中国に侵略される前から侵略されてきたウイグル自治区を、彼女に見せたかったのと同時に、一緒に行ってみたかったのだと思う。

私がデリーに戻ってきたのは、その行程を飛び越し、ウイグル自治区の先のキルギスという国まで、デリーから飛行機で飛ぼうと決めたからだった。しかしキルギス内で起きている暴動が深刻化しており、難民は10万を超えるというニュースを見て、ここはキルギスを諦め、そのまた先のウズベキスタンまで飛ぼうと考えた。

15日、早々にウズベキスタン航空オフィスを発見し、早々にチケットを購入。そして翌日の16日に、ウズベキスタン大使館へ赴いた。

大使館でのビザ取得は、はっきり言って私にとっては難関である。国の情勢やビザの申請についてのあれこれなど、早口の英語で言われても分かるはずもない。

できるだけの情報を集めてみると、ウズベキスタンへは観光目的で行けそうだった(キルギスも一応入国はできそうだった)。インドで日本人へのウズベキスタンビザの発行には、一枚の写真とパスポートのコピーと申請書のみで、所要10日ということだった。無料。ただし、出入国日の指定が必要だった。

もしかしたらウズベキスタン入国に関する証明書が必要かもしれないと考えた私は、先に航空券を買っておいたのだ。それを見せたら、有無も言わずビザは取れるだろうと思った。

しかし実際は、申請書に記入するだけでそんなものの提出は求められず、びっくりするほどあっけなく終了。しかも、ビザは3日でできるという(!)

某ガイドブックに所要10日って書いてあったのに〜!と、最新情報を確認しなかった私のミスを棚に上げ、ま、仕方ないかと長期のデリー滞在をするはめになってしまった。

ウズベキスタン大使館では、偶然にも後からひとりの日本人男性が現れた。彼は私と同い年で英語が堪能。助けてもらって、この日は夕方まで話し込み、翌日の17日には私が滞在しているチベタンエリアまで来てくれて、一緒にいた。

彼は、パキスタンを通ってウズベキスタンへ行くという。「暴動とか、テロとか聞いても、やっぱり現地まで行かないと分からないですよ。」

彼のその言葉はよく理解できた。日本にいると、本当に何も分からないことが多すぎる。国の国境を自分でわたり、その国の人たちに直に触れないと分からない。パキスタンは確かにテロが多いけれど、それはある地区に限ってのことであり、パキスタンの人たちは旅人には本当に優しく、友好的で温かい人が多い。

私もやっぱり陸路で行こうかと少し悩んだ。しかし、もう気持ちはちょっと邪道の飛行機を使うことを決意していた。自分の力量と、危険に対しての回避について、英語が分からないことが大きく影響することを知っているからだ。

しかし…。3年前の旅でもそうだったけれど、私が苦手とする場所に行くときや何らかの危険に遭遇したときなど、どうしてこうも私に助っ人が現れるのだろう、不思議だ。ネパールへの国境で銃を突きつけられたときも、たまたま一人の日本人が通りかかったし、ネパールでマオイストに襲われたときも一人じゃなく、ネパール人の助っ人も現れたし…。こういう面で、私は何かの運を持っているのかもしれない。

写真はその日本人の男の子がシク教徒からもらったジュース。すごい色そしているけれど、味はライチ味だった。

saraswatiganesh at 16:43|PermalinkComments(2)TrackBack(0)

パハルガンジの工事といったら…

CIMG1056先月に一日だけNEW DELHIのパハルガンジ通りに泊まり、そのときも道路のあらゆる箇所が工事されてて、しかも泊まった安宿の水道から出てくる水は下水の臭いがしていたという、恐ろしい事態になっていましたが…。
それから3週間後のパハルガンジは、もっとやばいことになってます!

2日前パハルガンジを歩いてみると、なんと道の両端にある建物が、削られている!!両端の建物から鉄筋が飛び出していますが、これは鉄筋で支えていた建物のコンクリートを削って出てきたもの。

ええ〜〜!?なんでだなんでだ?上ばかり見て歩いていたら、ゴゴゴゴ…という鈍い音がしてハッとすると、なんと頭上からコンクリートのかたまりが落ちてきて…。

一緒にいた日本人の男の子と走って逃げました(私は彼を追い越してしまいました…)。

現地のインド人たちもさすがに声が出ず…。でもすぐにあれやこれやと大声で工事に対して何か言ってた。

なんでこんなことに?聞いてみると、なんとパハルガンジの道を拡大することに決まったそうで、もともと違法だった両端の建物の所有者に通告がなされたらしい。もしかしたら露天や商店も立ち退きをいわれる可能性があるらしい。

ええ〜〜!ほんまかいな。

でも、この状況。本当なんです。


saraswatiganesh at 16:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

DELHIでの驚き?

CIMG1054汚すぎる!!
6月16日の今日、あちこちでインドのシク教徒さんたちが、無料で甘いジュースを配っているのを目撃した。シク教徒のことは詳しく知らないけれど、きっと、そういう日なのだろう。
しかし…。できることならごみのことまで考えていただきたいな。ま、ここはデリーだし、毎日ごみを集める仕事の子供たちがいるとしてもよ。

ダラムサラは山の上にあるし、ビニール袋の使用を禁じられていたりしてたなぁ…。インドの都市部に来ると、そんな日々が懐かしい。

saraswatiganesh at 16:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

DELHIでの驚き?

CIMG1051地下鉄、きれいすぎる!!

saraswatiganesh at 15:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)