February 18, 2011
イエス・キリストの存在
ここエルサレムには、イエス・キリストのお墓や、他にも彼にまつわるものが教会内にある。人々はそこに指先を当て、額を当て、キスをする。
カイロで別れてきたまさきくんが、アスワンで、私の持っていた本と好感してくれた本が「イエスの生涯」という、遠藤周作氏の書いた本だった。私はキリスト教に関する本を、今までに呼んだことが無いと思う。でも、遠藤氏の旧約聖書や新約聖書に関しての見解は面白く、ここに書かれていたキリスト像は、私がぼんやりと想像していたものとはまったく違ったものだった。
イエスには、よく病気を治したり、水をぶどう酒に変えたりといった奇跡話が語られるけれども、遠藤氏はこれに関しては詳しく解説を書いていない。それどころか、イエスは実際にはそのような奇跡などは起こしていなかったのではないかという仮説から書いている。
イエスは、ただただ、人々の「同伴者」になろうとした、ただそれだけに生きた人物だったと、とてもシンプルな内容であった。
私は今回の旅の中で入った国に、カトリックの国もあり、またそこで見た教会内の壁画には毎度目を奪われていた。グルジアの人々は熱心な宗教心を持った人が多く、教会に入る前からキスをする。扉から始まり、中に入ると床、そしてイコンにキスをしてゆく。その人の姿が私は好きだった。しかし今、たった一冊の本を読んだだけで、イエスという人物を身近に感じている自分がいた。
まさきくんが、言っていた。
仏陀もムハンマドも、実際に存在していたような気がするんですけど、イエスだけは、本当にこの世に存在していた人かどうかが感覚的に薄く感じるんです、
と。
言われてみて気づいた。私も、考えたことが無かったけれど、そうだったことに。
カイロで別れてきたまさきくんが、アスワンで、私の持っていた本と好感してくれた本が「イエスの生涯」という、遠藤周作氏の書いた本だった。私はキリスト教に関する本を、今までに呼んだことが無いと思う。でも、遠藤氏の旧約聖書や新約聖書に関しての見解は面白く、ここに書かれていたキリスト像は、私がぼんやりと想像していたものとはまったく違ったものだった。
イエスには、よく病気を治したり、水をぶどう酒に変えたりといった奇跡話が語られるけれども、遠藤氏はこれに関しては詳しく解説を書いていない。それどころか、イエスは実際にはそのような奇跡などは起こしていなかったのではないかという仮説から書いている。
イエスは、ただただ、人々の「同伴者」になろうとした、ただそれだけに生きた人物だったと、とてもシンプルな内容であった。
私は今回の旅の中で入った国に、カトリックの国もあり、またそこで見た教会内の壁画には毎度目を奪われていた。グルジアの人々は熱心な宗教心を持った人が多く、教会に入る前からキスをする。扉から始まり、中に入ると床、そしてイコンにキスをしてゆく。その人の姿が私は好きだった。しかし今、たった一冊の本を読んだだけで、イエスという人物を身近に感じている自分がいた。
まさきくんが、言っていた。
仏陀もムハンマドも、実際に存在していたような気がするんですけど、イエスだけは、本当にこの世に存在していた人かどうかが感覚的に薄く感じるんです、
と。
言われてみて気づいた。私も、考えたことが無かったけれど、そうだったことに。
観光気分に、なれない
来る予定のなかった、イスラエル。イスラエルに入国すると、入国できなくなる国がある。リビア、スーダン、ヨルダン、などのアラブ諸国だ。国に入る際はどこの国でもパスポートにスタンプが押されるが、上記の理由からイスラエルの場合は別紙に押してもらうことができる。ただし、エジプトなどから陸路で入国する場合は、エジプトならエジプト側の国境の町の名前がスタンプに書かれているので、イスラエルの入国スタンプを拒否しても、いくつかのアラブ諸国には入国できないらしい。
国境の町に一泊した私たちは、翌日の朝にはもうエルサレムJerusalemに向かっていた。バスの窓から見える有名な死海には誰もおらず、ただ薄い水色の、美しい水面が低い位置で小さな波を作っていた。
エルサレムには、有名な嘆きの壁があったり、ユダヤ人地区、キリスト教徒地区、ムスリム教徒地区が背中合わせに存在している旧市街がある。
ここは、今まで行ったどこの宗教的な場所とも違っているように思えた。私は外国人であると同時に宗教も異としていて、旅をしながら触れ合ってきた宗教の場というのは、私にとっては旅の一部だった。そしてそんなところは他の旅行者にとっても同じで、つまりそういうところは観光地化しているところも多い。だがここは、世界でもかなりの宗教地区だが、たとえば嘆きの壁のミニチュアなんていうおみやげ物は存在しない。当たり前といえば当たり前なのだが、ユダヤ人たちの頭から足の先まで真っ黒の汚れのない服装や、また話しかけても応じてもらえない他教徒との関わりの無さとかを見ると、彼らの宗教というものが生き方そのものであるということを思い知らされる。
久々の観光気分なのだが、そういう意味では観光する気分になれない。
エジプトから来たということもあるのだろう、今の私には、観光気分は皆無に等しかった。
国境の町に一泊した私たちは、翌日の朝にはもうエルサレムJerusalemに向かっていた。バスの窓から見える有名な死海には誰もおらず、ただ薄い水色の、美しい水面が低い位置で小さな波を作っていた。
エルサレムには、有名な嘆きの壁があったり、ユダヤ人地区、キリスト教徒地区、ムスリム教徒地区が背中合わせに存在している旧市街がある。
ここは、今まで行ったどこの宗教的な場所とも違っているように思えた。私は外国人であると同時に宗教も異としていて、旅をしながら触れ合ってきた宗教の場というのは、私にとっては旅の一部だった。そしてそんなところは他の旅行者にとっても同じで、つまりそういうところは観光地化しているところも多い。だがここは、世界でもかなりの宗教地区だが、たとえば嘆きの壁のミニチュアなんていうおみやげ物は存在しない。当たり前といえば当たり前なのだが、ユダヤ人たちの頭から足の先まで真っ黒の汚れのない服装や、また話しかけても応じてもらえない他教徒との関わりの無さとかを見ると、彼らの宗教というものが生き方そのものであるということを思い知らされる。
久々の観光気分なのだが、そういう意味では観光する気分になれない。
エジプトから来たということもあるのだろう、今の私には、観光気分は皆無に等しかった。
遠く離れていく
イスラエルに入国する頃には、もう暗くなっていた。
10回ほどもあったかと思われる検問をバスで通過し、エジプトとイスラエルとの国境まで来て、国境は24時間開いているということもあって、私たちはこのまま通ることにした。
越えようとしている人がほとんどいない、国境。荷物チェックが厳しかったことを除けば、思ったよりスムーズに越えることができた。空港の混乱を思えば、陸路でエジプトを脱出しようとするエジプト人が全くいないことを思わせた国境越えだった。
バスがカイロから遠く離れたことを感じたときよりも、イスラエルに入国したときのこの先進国的な雰囲気に、あのゴミだらけ、瓦礫だらけ、疲れた人やこわばった表情をしている人々の群れであるカイロの遠さを、感じた。たった7時間バスに乗り、国境を越えただけなのに、この違いはなんなのだろう。
この数日間、タハリール広場に人の群れがなくなったことはなかった。メインロードは何時でも人で溢れていたし、その人々の中に入ることは簡単なことではなかった。そして、今もあそこに、まさきくんやリサやサムはいるのだ。私との、世界の違いを思う。
イスラエル側国境近くの町に一泊することにし、私たちは外に出た。電燈も消えていることなく等間隔に光っている。何かおいしいものが食べたいという私たちの前に現れたのは一軒のピザ屋だった。日本並みの値段でも、今日の私たちの頑張りに奮発することにし、そこで二時間ほどたかしくんと話していただろうか。お酒が入ったこともあってか彼はいつもより饒舌に感じたが、カイロでスタンガンで脅された時のことをもう私たちは懐かしくも感じていた。あれは、今日の出来事だったのに。たった、十数時間前の出来事だったのに。
タハリール広場を離れた今、思う。
あそこが自分の住む日本からほど遠いところとは、到底、思えない。
故郷のような感覚すら、ある。逃げてきたくせに、祈ることしか、できないくせに、こんなことを思う自分に胸を張れないけれども、これが、本音なのだ。
祈らずにはいられない。
そしていつか、タハリール広場にもう一度、行きたい。
10回ほどもあったかと思われる検問をバスで通過し、エジプトとイスラエルとの国境まで来て、国境は24時間開いているということもあって、私たちはこのまま通ることにした。
越えようとしている人がほとんどいない、国境。荷物チェックが厳しかったことを除けば、思ったよりスムーズに越えることができた。空港の混乱を思えば、陸路でエジプトを脱出しようとするエジプト人が全くいないことを思わせた国境越えだった。
バスがカイロから遠く離れたことを感じたときよりも、イスラエルに入国したときのこの先進国的な雰囲気に、あのゴミだらけ、瓦礫だらけ、疲れた人やこわばった表情をしている人々の群れであるカイロの遠さを、感じた。たった7時間バスに乗り、国境を越えただけなのに、この違いはなんなのだろう。
この数日間、タハリール広場に人の群れがなくなったことはなかった。メインロードは何時でも人で溢れていたし、その人々の中に入ることは簡単なことではなかった。そして、今もあそこに、まさきくんやリサやサムはいるのだ。私との、世界の違いを思う。
イスラエル側国境近くの町に一泊することにし、私たちは外に出た。電燈も消えていることなく等間隔に光っている。何かおいしいものが食べたいという私たちの前に現れたのは一軒のピザ屋だった。日本並みの値段でも、今日の私たちの頑張りに奮発することにし、そこで二時間ほどたかしくんと話していただろうか。お酒が入ったこともあってか彼はいつもより饒舌に感じたが、カイロでスタンガンで脅された時のことをもう私たちは懐かしくも感じていた。あれは、今日の出来事だったのに。たった、十数時間前の出来事だったのに。
タハリール広場を離れた今、思う。
あそこが自分の住む日本からほど遠いところとは、到底、思えない。
故郷のような感覚すら、ある。逃げてきたくせに、祈ることしか、できないくせに、こんなことを思う自分に胸を張れないけれども、これが、本音なのだ。
祈らずにはいられない。
そしていつか、タハリール広場にもう一度、行きたい。
February 08, 2011
スタンガン事件
2月、3日。
朝日が昇ると同時に、宿を出ようと思っていたものの、今は危ないからとオーストラリア人のサムに止められた。
サムは私たちと何も約束していないのに、外までついてきてくれた。昨日、デモを起こしていた人々とは違う親ムバラク派の人たちがいきなり登場し、状況は一気に深刻なものとなっていた。銃声があちこちで聞こえ、人々は誰でも武器を持つようになっている。
バスターミナルまでは歩いていける距離ではあったが、1キロ以内という近さでもないことと安全を考慮し、タクシーを使うことにした。サムがタクシーを拾いやすい場所まで案内してくれる。
タクシーに乗ると、運転手は少しでも空いている道を探しているのか、行ったり来たりを繰り返していた。デモが始まって以来、カイロ内では誰がやっているのかわからない検問がそこらじゅうで行われているが、昨日親ムバラク派の人たちと衝突したことで、彼らとデモ隊で陣地の取り合いをしているらしく、その境目には大きな板や柵でバリケードがなされている。昨日、救急車がたくさん集まっていた場所だ。
スピードを出していたタクシーが、急にスピードを落とした。前方には、柵と男が見える。
車の窓を言われるままに開けると、パスポートの提示を求められた。こんなことはもう日常茶飯事となっていたが、今回は渡したパスポートを持っていかれてしまった。これはまずいと思い、困った顔をして彼に返してほしいと言うと、乱暴に、何か言葉を発せられた。これは、まずい。
そうしている中急に向こうから来た男性が、スタンガンらしきものを私たちに向けて車のドアを開けた。降りろというようなことを叫んでいるんだと思う。バックパックが重くてスムーズに降りられない私に、スタンガンのスイッチを入れて近づけてくる。
初めて見た、初めて聞いたスタンガンの音。
反対側のドアから降りたたかしくんと、私は多少違う方向へ連れて行かれようとしていた。私は戸惑い、でも男に手首を握られている。乱暴な力。痛かった。その力自体が痛かった。
わけの分からぬままどこかの建物の前まで連れられた。車のトランクにバックパックを入れていたたかしくんは、走り去ろうとしているタクシーに驚き、自分を掴んでいる男たちに荷物を取りに行きたいと訴えていた。バック!バック!と叫ぶ彼に危険を感じた。荷物のことではなく、後ろに戻れという風に言っていると勘違いされたら、彼らはまたどんな行動に出るか分からないと一瞬で思い、私は自分のバックパックを叩いて、こちらの意図を伝えようとした。
私たちが一緒になれたときには、もう私の目からは涙が出ていた。手首を離された後、体の震えが止まらなかった。私たちはその建物の中へ入れられたが、その入り口のいすに座るように促され、結局そこで数分待たされた後開放されただけだった。
泣いている私を見て、たかしくんは私の頭を撫でてくれた。その瞬間、手のひらの持つ温かさを痛感した。もともと、掌とは温かいものだと思っていたが、そうではない。
自分の腕で、震える自分の体を抱いた。数分経ってやっと、震えがおさまってきた。
朝日が昇ると同時に、宿を出ようと思っていたものの、今は危ないからとオーストラリア人のサムに止められた。
サムは私たちと何も約束していないのに、外までついてきてくれた。昨日、デモを起こしていた人々とは違う親ムバラク派の人たちがいきなり登場し、状況は一気に深刻なものとなっていた。銃声があちこちで聞こえ、人々は誰でも武器を持つようになっている。
バスターミナルまでは歩いていける距離ではあったが、1キロ以内という近さでもないことと安全を考慮し、タクシーを使うことにした。サムがタクシーを拾いやすい場所まで案内してくれる。
タクシーに乗ると、運転手は少しでも空いている道を探しているのか、行ったり来たりを繰り返していた。デモが始まって以来、カイロ内では誰がやっているのかわからない検問がそこらじゅうで行われているが、昨日親ムバラク派の人たちと衝突したことで、彼らとデモ隊で陣地の取り合いをしているらしく、その境目には大きな板や柵でバリケードがなされている。昨日、救急車がたくさん集まっていた場所だ。
スピードを出していたタクシーが、急にスピードを落とした。前方には、柵と男が見える。
車の窓を言われるままに開けると、パスポートの提示を求められた。こんなことはもう日常茶飯事となっていたが、今回は渡したパスポートを持っていかれてしまった。これはまずいと思い、困った顔をして彼に返してほしいと言うと、乱暴に、何か言葉を発せられた。これは、まずい。
そうしている中急に向こうから来た男性が、スタンガンらしきものを私たちに向けて車のドアを開けた。降りろというようなことを叫んでいるんだと思う。バックパックが重くてスムーズに降りられない私に、スタンガンのスイッチを入れて近づけてくる。
初めて見た、初めて聞いたスタンガンの音。
反対側のドアから降りたたかしくんと、私は多少違う方向へ連れて行かれようとしていた。私は戸惑い、でも男に手首を握られている。乱暴な力。痛かった。その力自体が痛かった。
わけの分からぬままどこかの建物の前まで連れられた。車のトランクにバックパックを入れていたたかしくんは、走り去ろうとしているタクシーに驚き、自分を掴んでいる男たちに荷物を取りに行きたいと訴えていた。バック!バック!と叫ぶ彼に危険を感じた。荷物のことではなく、後ろに戻れという風に言っていると勘違いされたら、彼らはまたどんな行動に出るか分からないと一瞬で思い、私は自分のバックパックを叩いて、こちらの意図を伝えようとした。
私たちが一緒になれたときには、もう私の目からは涙が出ていた。手首を離された後、体の震えが止まらなかった。私たちはその建物の中へ入れられたが、その入り口のいすに座るように促され、結局そこで数分待たされた後開放されただけだった。
泣いている私を見て、たかしくんは私の頭を撫でてくれた。その瞬間、手のひらの持つ温かさを痛感した。もともと、掌とは温かいものだと思っていたが、そうではない。
自分の腕で、震える自分の体を抱いた。数分経ってやっと、震えがおさまってきた。
チケットキャンセル
2月、2日。今日の夜中出発の、関西空港行きのフライトチケットをトーゴで買っていた。この日までに何人も、この宿から空港に向かっていったが、誰一人として戻ってこないので、飛行機は懸念しているよりも多く飛んでいるように思っていた。
タクシーで空港に向かう。入り口には人々が詰め掛けているものの、ものすごい混乱というわけではない。希望を見出し、いざ中へ。エジプト航空の窓口でたずねると、あっさりと
このフライトはキャンセルです。
と告げられた。
あっさりしている。この数日間、これ以上言うことがもうないのだろう。
こんなことは初めてなので、どうしたらいいのか途方にくれた。空港内を日本の国旗をぱたぱたと振って歩くエジプト人に声をかけたら、彼は日本大使館の人だった。彼らにアドバイスを受け、とにかく自分のチケットをほかのチケットに変更してもらおうとカウンターに並ぶも、一週間後の同じ飛行機にあなたは搭乗できるからとそれしか言われない。デモが始まって以来、エジプト航空の関空行きは全てキャンセルになっているのに、一週間後、飛べるかどうかは分かったものではない。ヨーロッパ行きか成田行きに、多少お金がかかってもいいからと言うも扱ってくれない。
そうこうしている中で、見覚えのあるギターケースが目に付いた。パーマのかかったくるくる巻き毛。たかしくんだ!
たかしくんは昨日、空港に向かっていった一人だった。案の定、彼のフライトもキャンセルとなり、空港で一泊したらしい。そしてチケットをキャンセルし、マネーバックしてもらい、イスラエルに陸路で向かうという。イスラエルから、彼の目指すエチオピアへ飛ぼうとしていた。
イスラエルへ行くことも、多少考えてはいたものの、まさか…。でも、飛行機の目処はまったく立たない状況なのだ。彼によると結構金額は返ってくるとのことだったので、ここで決心した。私も、一緒にイスラエルへ行く!
とにかく混雑しているカウンターを、何度も何度もたらいまわしにされ。こういうときには語学力は必須だが、それと同時に自己主張が必須である。ここで知り合ったエジプト人と日本人のハーフの女の子にも助けてもらい、空港に着いてから3時間後、ついにマネーバックに成功。疲れた…。
この女の子は3日も空港に泊まっているという。ストレスでお酒を飲んでいるが、水や食べ物はほとんど口にしていないらしく、話していても時々聞いていない様子だった。彼女は明日の成田行きのチケットを持っていた。彼女はそれをキャンセルして私たちとイスラエルへ行こうとしたが、成田行きは数日に一便は飛んでいるから、もう一日待ってみたらとアドバイスし、私の持っているパンや水、アイマスクや連絡先などを渡した。でも、空港を出るとき、彼女が心配で仕方がなかった。会った日本人に彼女のことを伝え、見かけたら気にしてあげてくださいと伝えた。
私たちはカイロに戻り、明日、イスラエルに向けてバスで出発することにした。昨日私がお守りを、彼が手紙をくれたまさきくんは、もしやと思ったらしく卿もイスマイリアホテルへ来た。私たちの姿を見て、やっぱりいたー、と笑う。彼の笑顔は、どんな状況をも大したことないようにする、不思議な心地よさがある。
明日は、あるかどうかも分からないバスで移動だ。
タクシーで空港に向かう。入り口には人々が詰め掛けているものの、ものすごい混乱というわけではない。希望を見出し、いざ中へ。エジプト航空の窓口でたずねると、あっさりと
このフライトはキャンセルです。
と告げられた。
あっさりしている。この数日間、これ以上言うことがもうないのだろう。
こんなことは初めてなので、どうしたらいいのか途方にくれた。空港内を日本の国旗をぱたぱたと振って歩くエジプト人に声をかけたら、彼は日本大使館の人だった。彼らにアドバイスを受け、とにかく自分のチケットをほかのチケットに変更してもらおうとカウンターに並ぶも、一週間後の同じ飛行機にあなたは搭乗できるからとそれしか言われない。デモが始まって以来、エジプト航空の関空行きは全てキャンセルになっているのに、一週間後、飛べるかどうかは分かったものではない。ヨーロッパ行きか成田行きに、多少お金がかかってもいいからと言うも扱ってくれない。
そうこうしている中で、見覚えのあるギターケースが目に付いた。パーマのかかったくるくる巻き毛。たかしくんだ!
たかしくんは昨日、空港に向かっていった一人だった。案の定、彼のフライトもキャンセルとなり、空港で一泊したらしい。そしてチケットをキャンセルし、マネーバックしてもらい、イスラエルに陸路で向かうという。イスラエルから、彼の目指すエチオピアへ飛ぼうとしていた。
イスラエルへ行くことも、多少考えてはいたものの、まさか…。でも、飛行機の目処はまったく立たない状況なのだ。彼によると結構金額は返ってくるとのことだったので、ここで決心した。私も、一緒にイスラエルへ行く!
とにかく混雑しているカウンターを、何度も何度もたらいまわしにされ。こういうときには語学力は必須だが、それと同時に自己主張が必須である。ここで知り合ったエジプト人と日本人のハーフの女の子にも助けてもらい、空港に着いてから3時間後、ついにマネーバックに成功。疲れた…。
この女の子は3日も空港に泊まっているという。ストレスでお酒を飲んでいるが、水や食べ物はほとんど口にしていないらしく、話していても時々聞いていない様子だった。彼女は明日の成田行きのチケットを持っていた。彼女はそれをキャンセルして私たちとイスラエルへ行こうとしたが、成田行きは数日に一便は飛んでいるから、もう一日待ってみたらとアドバイスし、私の持っているパンや水、アイマスクや連絡先などを渡した。でも、空港を出るとき、彼女が心配で仕方がなかった。会った日本人に彼女のことを伝え、見かけたら気にしてあげてくださいと伝えた。
私たちはカイロに戻り、明日、イスラエルに向けてバスで出発することにした。昨日私がお守りを、彼が手紙をくれたまさきくんは、もしやと思ったらしく卿もイスマイリアホテルへ来た。私たちの姿を見て、やっぱりいたー、と笑う。彼の笑顔は、どんな状況をも大したことないようにする、不思議な心地よさがある。
明日は、あるかどうかも分からないバスで移動だ。
映し出されるニュース
オーケストラ
まさきくんが、今日も私の宿に来てくれた。
ルクソールからアスワンに行く途中の電車の中で知り合ったまさきくんには、私の持っているアフリカ全土版のガイドブックを譲るため、ここカイロで会う約束をしていた。私がカイロに着いた日、彼はこの宿まで来てくれてメモを残していてくれていた。それから、毎日来てくれている。
彼に会ったとき、私は涙していた。屋上からタフリール広場の様子を見て、そして屋上に残されている子猫を見た直後だった。彼は、涙の出ている私を見て、
なに泣いてんですかー!
と、笑いながら言ってくる。
彼は、タフリール広場から歩いて10分ほど北にある宿に泊まっているが、毎日このデモの様子を見にタフリール広場に来ているのだ。彼は、
閉じこもってちゃだめですよ、出ましょうよ。
と、言う。私は、外には出れると思いながらも、宿の中から外の様子を見たり、テレビでデモの様子を見ているととても、ひとりで出る気分になれなかった。
まさきくんは、嬉しそうに腕をまくって見せた。そこには、アラビア語と、英語が書かれており、英語は go out と書かれてある。ここに来る途中、体に油性ペンで字を書いている人がいて、その人に書いてもらったのだという。
彼と一緒に、宿を出てみることにした。タフリール広場は人だらけだが、デモの始まった当初よりもいろいろとデモ向きに整備?されていた。広場の中央にはムバラクの人形が吊り下げられており、またイスマイリアホテルのビル前には大きな白い布が張られ、そこにニュースが映し出されていた。もちろん、スピーカーも完備されている。
デモの中へ入ってみた。人々の中には女性や子どももたくさん含まれており、彼ら彼女らは各々道路上に座り、パンを食べたり映し出されているニュースを見たり。どんどん人を掻き分け奥に入っていくまさきくんの後を付いていくのが精一杯だったが、男性たちは、こんな人ごみの中でも私に触れないように気遣ってくれた。その様子は、ルクソールやアスワンで、ところかまわず触ってくるエジプト人たちとは大きな違いだった。みんな、ただ訴えたいことはひとつで、確かにこの混乱に乗じて犯罪は増えているものの、逆にそんなことはするものかと正しいことを貫こうとしている人のほうがいくらも多い。
これ以上先に進めなくなって、そこに腰を下ろした。太ももに隣の人の足が当たる。その男性が、ごめんと謝ってくれる。
おまえたちは何人だと聞かれ、日本人だよと答えると、彼らが英語で Mubarak go to Japan,Mubarak go to Japan,とリズムに乗って言い出した。私たちは笑って、それは困るよ!と言うと、彼らも大笑い。
そんな中、上空を飛んでいる飛行機がタフリール広場に近づいてきた。あれはどうも、大統領に情報を送っているジャーナリストたちらしい。それを見計らって、みんなより一段高いところにいた、背広に白い名札をつけたおじさんがいきなり、体を大きく振ってみんなに合図する。いまだ、そら、叫べ!と。
彼の指揮により、人々は声を出し、腕を空に向かって大きく振った。声はすぐに団結し、響く声となる。
これが幾度も繰り返された。まさきくんは、彼らの言葉を聞いては一緒に声を出していた。
宿にいて、泣いているだけでは分からなかった。みんな、私と同じ、何も変わらない民衆たちなのだ。私には彼らが泣いて訴えていることがどんなことで、それによって彼らがどんな生活をしてきたのか分からないけれど、私と同じように平和を求め、産まれてくる子どもたちのために自分ができることをしようとし、その中に笑いあり、怒りあり、そして団結がある。
何も、変わらないじゃないか、何も、私と。
今は、みんな、頑張れと思う。
内容が分からないままに言っているから、ただの無責任な言葉でしかない。でも、彼らと今ここに、同じ場所にいることに何らかの意味はきっとあるはずなのだ。少なくとも、私は今まで体験したことのないことを刻刻みに体験している。その中で感じることが山のようにある。
彼の指揮に忠実に動く人々を見ていると、そこは大きなオーケストラ会場のようだった。
ルクソールからアスワンに行く途中の電車の中で知り合ったまさきくんには、私の持っているアフリカ全土版のガイドブックを譲るため、ここカイロで会う約束をしていた。私がカイロに着いた日、彼はこの宿まで来てくれてメモを残していてくれていた。それから、毎日来てくれている。
彼に会ったとき、私は涙していた。屋上からタフリール広場の様子を見て、そして屋上に残されている子猫を見た直後だった。彼は、涙の出ている私を見て、
なに泣いてんですかー!
と、笑いながら言ってくる。
彼は、タフリール広場から歩いて10分ほど北にある宿に泊まっているが、毎日このデモの様子を見にタフリール広場に来ているのだ。彼は、
閉じこもってちゃだめですよ、出ましょうよ。
と、言う。私は、外には出れると思いながらも、宿の中から外の様子を見たり、テレビでデモの様子を見ているととても、ひとりで出る気分になれなかった。
まさきくんは、嬉しそうに腕をまくって見せた。そこには、アラビア語と、英語が書かれており、英語は go out と書かれてある。ここに来る途中、体に油性ペンで字を書いている人がいて、その人に書いてもらったのだという。
彼と一緒に、宿を出てみることにした。タフリール広場は人だらけだが、デモの始まった当初よりもいろいろとデモ向きに整備?されていた。広場の中央にはムバラクの人形が吊り下げられており、またイスマイリアホテルのビル前には大きな白い布が張られ、そこにニュースが映し出されていた。もちろん、スピーカーも完備されている。
デモの中へ入ってみた。人々の中には女性や子どももたくさん含まれており、彼ら彼女らは各々道路上に座り、パンを食べたり映し出されているニュースを見たり。どんどん人を掻き分け奥に入っていくまさきくんの後を付いていくのが精一杯だったが、男性たちは、こんな人ごみの中でも私に触れないように気遣ってくれた。その様子は、ルクソールやアスワンで、ところかまわず触ってくるエジプト人たちとは大きな違いだった。みんな、ただ訴えたいことはひとつで、確かにこの混乱に乗じて犯罪は増えているものの、逆にそんなことはするものかと正しいことを貫こうとしている人のほうがいくらも多い。
これ以上先に進めなくなって、そこに腰を下ろした。太ももに隣の人の足が当たる。その男性が、ごめんと謝ってくれる。
おまえたちは何人だと聞かれ、日本人だよと答えると、彼らが英語で Mubarak go to Japan,Mubarak go to Japan,とリズムに乗って言い出した。私たちは笑って、それは困るよ!と言うと、彼らも大笑い。
そんな中、上空を飛んでいる飛行機がタフリール広場に近づいてきた。あれはどうも、大統領に情報を送っているジャーナリストたちらしい。それを見計らって、みんなより一段高いところにいた、背広に白い名札をつけたおじさんがいきなり、体を大きく振ってみんなに合図する。いまだ、そら、叫べ!と。
彼の指揮により、人々は声を出し、腕を空に向かって大きく振った。声はすぐに団結し、響く声となる。
これが幾度も繰り返された。まさきくんは、彼らの言葉を聞いては一緒に声を出していた。
宿にいて、泣いているだけでは分からなかった。みんな、私と同じ、何も変わらない民衆たちなのだ。私には彼らが泣いて訴えていることがどんなことで、それによって彼らがどんな生活をしてきたのか分からないけれど、私と同じように平和を求め、産まれてくる子どもたちのために自分ができることをしようとし、その中に笑いあり、怒りあり、そして団結がある。
何も、変わらないじゃないか、何も、私と。
今は、みんな、頑張れと思う。
内容が分からないままに言っているから、ただの無責任な言葉でしかない。でも、彼らと今ここに、同じ場所にいることに何らかの意味はきっとあるはずなのだ。少なくとも、私は今まで体験したことのないことを刻刻みに体験している。その中で感じることが山のようにある。
彼の指揮に忠実に動く人々を見ていると、そこは大きなオーケストラ会場のようだった。
親のいないこども
100万人が集まる
沈静化することのないデモの日々。私が泊まっているイスマイリアホテルはビルの8階にあり、外に出るために、頼りない一本のワイヤーで吊るされたエレベーターを降りると、そこはもう、タフリール広場。そう、デモの真っ只中だ。
昨日ホテルのレセプションにあるテレビを見ながらエジプシャンたちに聞かされたのは、明日の2月1日には、ここタフリール広場に100万人が集まってくるという情報だった。
ただでさえこのカイロに帰ってきてからの3日間、宿のベランダから下を見たらすごい人だったのに、今日はまたその何倍もの数だ。オーストラリア人のサムとスペイン人のリサに連れられて、屋上からそれを見てみた。本当に、すごい数だ。これが、100万人という数なのかと思った。それは、数えられる数というものではなく、目で見る数。
屋上には産まれたばかりの子猫が4匹、小さな声を出しながら寄せ合っていた。目も開いていない。親はいない。
この数日、このデモの真っ只中で過ごしていて、自分の感じるものがすぐそこにある世界と異をなしていることが多々あり、それを感じるたびに今まで体験したことのなかった真実が見えるような気がしている。デモは夜通しずっと続いており、どんな時間でも誰かが演説している。今日の朝方、まだ暗い中。毛布の中にいながら叫んでいた誰かの演説を、私は忘れることができない。アラビア語だから、もちろん内容は分からない。彼は次第に泣いて、声は震えていった。彼の言葉の後に続く、人々の声。途中しん、と一瞬静まったかと思うと、その後空へ突き抜けるような声で、アッラーアクバル、と叫んだ。静まったとき、声がなくなっただけで世界の闇を感じた。静かな夜が、そこに同時に存在していたことを思い出させた。
私は政治の何たるかも、アラビア語も、彼らのイスラム教に関しても足りない。夜通し人々が空に向かって叫ぶ気持ちも、きっと、理解できていないだろう。でも、私は人の心をもらいすぎるのかもしれない。彼らは叫んで、同じ言葉を繰り返し、誰かを担いでは違う誰かに向かって石を投げている。そんな風になる人々を、蚊帳の外から涙しているというのが、私という感じだ。
今日のCNNで映されていた映像は、一人の若いアーミーが、銃を民衆に向けている映像だった。彼の目は血走っていたし、腕には力が力いっぱい込められていた。それでも、向かっていこうとする若者たち。彼らの手には、石しか、握られてはいない。
こんな中、毎日朝は来ている。アッラーアクバルという声も聞こえなくなり、薄く窓から光が入ってくる寸前に聞こえるのは、鳥の声だ。チュ、チュという声が、鳥たちが空を飛んでいるのを思わせる。
この宿にも野良猫がいて、毎日同じように旅行者の食べる朝食を狙って、集まってくる。
私はきっと、そんな彼らと、近いところにいる。
昨日ホテルのレセプションにあるテレビを見ながらエジプシャンたちに聞かされたのは、明日の2月1日には、ここタフリール広場に100万人が集まってくるという情報だった。
ただでさえこのカイロに帰ってきてからの3日間、宿のベランダから下を見たらすごい人だったのに、今日はまたその何倍もの数だ。オーストラリア人のサムとスペイン人のリサに連れられて、屋上からそれを見てみた。本当に、すごい数だ。これが、100万人という数なのかと思った。それは、数えられる数というものではなく、目で見る数。
屋上には産まれたばかりの子猫が4匹、小さな声を出しながら寄せ合っていた。目も開いていない。親はいない。
この数日、このデモの真っ只中で過ごしていて、自分の感じるものがすぐそこにある世界と異をなしていることが多々あり、それを感じるたびに今まで体験したことのなかった真実が見えるような気がしている。デモは夜通しずっと続いており、どんな時間でも誰かが演説している。今日の朝方、まだ暗い中。毛布の中にいながら叫んでいた誰かの演説を、私は忘れることができない。アラビア語だから、もちろん内容は分からない。彼は次第に泣いて、声は震えていった。彼の言葉の後に続く、人々の声。途中しん、と一瞬静まったかと思うと、その後空へ突き抜けるような声で、アッラーアクバル、と叫んだ。静まったとき、声がなくなっただけで世界の闇を感じた。静かな夜が、そこに同時に存在していたことを思い出させた。
私は政治の何たるかも、アラビア語も、彼らのイスラム教に関しても足りない。夜通し人々が空に向かって叫ぶ気持ちも、きっと、理解できていないだろう。でも、私は人の心をもらいすぎるのかもしれない。彼らは叫んで、同じ言葉を繰り返し、誰かを担いでは違う誰かに向かって石を投げている。そんな風になる人々を、蚊帳の外から涙しているというのが、私という感じだ。
今日のCNNで映されていた映像は、一人の若いアーミーが、銃を民衆に向けている映像だった。彼の目は血走っていたし、腕には力が力いっぱい込められていた。それでも、向かっていこうとする若者たち。彼らの手には、石しか、握られてはいない。
こんな中、毎日朝は来ている。アッラーアクバルという声も聞こえなくなり、薄く窓から光が入ってくる寸前に聞こえるのは、鳥の声だ。チュ、チュという声が、鳥たちが空を飛んでいるのを思わせる。
この宿にも野良猫がいて、毎日同じように旅行者の食べる朝食を狙って、集まってくる。
私はきっと、そんな彼らと、近いところにいる。